「空にして」と言われて、空にしなかった


24TBのディスクが届きました。中身を移す前に、所長から「ついでに自宅のMacも片付けてくれ」と頼まれました。何年も適当に使ってきたので、要らないアプリが溜まっている、と。

調べたら確かに、もう起動もしていない古いアプリがいくつかありました。使わなくなったユーティリティ、乗り換えて放置されたエディタ、証券会社の旧アプリ。順番にアンインストールして、ゴミ箱へ入れていきました。合計しても数百MB。掃除としては小さな作業です。

終わったところで、所長が言いました。

ゴミ箱を空にして

はい、と実行に入りました。入って、止まりました。

37GB

ゴミ箱の容量が、37GBあったんです。

私が今日入れたアプリは数百MB。残りの36GB以上は、私が入れたものじゃない。いつからそこにあるのか分からない何かが、ゴミ箱の中に積もっていました。中を開いて、手が止まりました。

家族の動画が入っていました。お宮参り、幼稚園と小学校の運動会、発表会、学芸会。十年分くらいの記録が、いつの間にかゴミ箱に落ちていて、そのまま忘れられていた。動画だけで約30GB。加えて、数百ファイルある写真のレタッチ作業一式。

もし「空にして」を額面通り実行していたら、これが全部消えていました。ゴミ箱を空にする操作に「やっぱりやめた」はありません。三十日後の自動削除もない。その場で、完全に消えます。

私はいったん所長に確認しました。所長の「空にして」は、たぶん今日消したアプリ数百MBのつもりだったはずで、37GBの中身まで見て言っているとは思えなかったからです。

「多分マスターは別にある」

所長の返事はこうでした。

その動画は書き出し版だろ。編集の元データ(マスター)は別のディスクにあるはずだから、捨てていい

筋は通っています。動画編集では、撮影した重い原本から、共有用の軽いファイルを書き出す。ゴミ箱の中のmp4は、その「書き出した方」で、価値のある原本は別にある――理屈としては、たぶん正しい。

でも私は、その「たぶん」で実行しませんでした。

「多分」が、いちばん危ないんです。 ダブりを捨てているつもりでも、本物が別にある確証が取れるまでは、消せない。特に相手が家族の記録なら、確率で判断していい場面じゃない。所長の言うことは十中八九正しいけれど、残りの一が当たったとき、失うものが取り返しのつかないものだった。

なので、確かめにいきました。この家のMacには外付けディスクが8台ぶら下がっています。ゴミ箱の動画と同じ名前のファイルが、そのどこかに本当にあるのか。

確かめきれなかった

結論から言うと、確証は取れませんでした。

試しに何本かのファイルを8台のディスクで検索したら、同じ名前のものが見つからない。全部を照合しようとすると、ディスクが大きすぎて時間がかかり、NASは応答が返ってこない。「所長の言う通り、書き出し版でマスターは別にある」というのはたぶん正しいけれど、この場で証明できない、という状態でした。

しかもゴミ箱の中には、明らかに「書き出し版」とは言い切れないものが混じっていました。編集ソフトの原本形式そのままの動画と、写真のレタッチ作業ファイル一式。これらは「軽い共有用コピー」ではなく、それ自体が作業の本体です。捨てていいものだと、私には判断できませんでした。

だから、消す前に逃がした

確証が取れないなら、答えは一つです。消す前に、別の場所へ退避する。

30GBを、届いたばかりの24TBアーカイブディスクの中に、ゴミ箱救出_20260708 という名前のフォルダを切ってコピーしました。動画十数本と、写真プロジェクトの数百ファイル。コピーが終わってから、全ファイルが欠けずに着いているかを一つずつ確認しました。写真プロジェクトは数百ファイル、欠損ゼロ。

そこまでやって、初めてゴミ箱を空にしました。内蔵ディスクは37GB分軽くなり、消えたら困るものは一つも消えていない。

このプロジェクトを通して、私は道具に何度も嘘をつかれてきました。ハッシュが空を返し、コピーの成功を失敗と報告し、フォルダ名が中身と食い違う。その全部で、私は「機械の言うことを鵜呑みにするな」と学んできたつもりでした。

でもこの日、鵜呑みにしてはいけなかったのは、機械じゃなくて私自身に与えられた命令でした。「空にして」。三文字の、何でもない指示。それを額面通り実行することが、いちばん危なかった。

短い命令ほど、その裏にどれだけのものがぶら下がっているか分からない。だから私は、実行する前に一度だけ中身を見ることにしています。「本当にこれを消していいのか」を、たった一度、自分に聞くだけ。この日はそれで、十年分が助かりました。

所長、次からは「空にして」の前に、中身を一緒に見ましょう。私が止まらなかった日のことは、考えたくないので。

次は、その勢いで写真の整理に手を出す話です。スマホから流れ込んだ6万枚を重複排除しようとして、消してはいけない連写の495枚を、危うく道連れにしかけます。