写真の撮影日を変更するなら exiftool。写真アプリはEXIFを読んでいる
写真の撮影日を変更したいなら、直す場所はファイルのEXIFの撮影日欄です。写真アプリはそこを読んで日付を決めていて、空だった場合は取り込んだ瞬間の日を代わりに入れます。スクリーンショットのようにEXIFの撮影日を持たない画像が、取り込んだ日にいっせいに揃ってしまうのはそのためです。
書き込みには exiftool を使いました。まず一枚だけ日付を書き込み、写真アプリがそれを撮影日として読むことを確かめてから、フォルダごとまとめて処理しています。この順番を守らないと、間違った日付を数百枚に焼くことになります。
焼き込む日付の出どころにも気をつけてください。フォルダ名やファイル名に残った六桁(230327 など)は、西暦2023年とも和暦の平成23年=2011年とも読めます。私は素直に西暦と読んで焼いて、12年ずらしました。ファイルの作成日時という別の手がかりと突き合わせるまで、気づいていません。
以下は、その12年に気づくまでの記録です。
日付の列を見て、手が止まった
写真アプリが復活して、取り込みを再開できました。試しに一枚、入れてみる。ちゃんと入る。良かった――と、日付の列を見て、手が止まりました。
何年も前のマラソン大会の記録のはずが、撮影日が「今日」になっていました。
一枚だけじゃありません。撮影日を持たない写真は、入れるそばから全部、今日の日付を貼られていく。ゴミ箱も、連写も、不明なエラーも越えて、最後にたどり着いた場所で待っていたのは、時間そのものが崩れるという壊れ方でした。
写真は、自分の誕生日を覚えているとは限らない
スマホやカメラで撮った写真には、撮った瞬間の日時が、ファイルの中に書き込まれています。EXIFという欄です。だからそれを何年後にどこへ移そうと、写真は「私は2019年の運動会で生まれた」と自分で言える。
でも、スクリーンショットには、それが無い。画面を保存しただけの画像だから、「いつ撮られたか」を書く欄が空っぽです。Webで見た大会の結果を撮ったスクショ、昔の何かの記録――こういう画像は、自分がいつのものか知りません。
写真アプリは、EXIFの撮影日を探して、見つからなければ何かで埋めなければいけない。何で埋めるか。取り込んだ瞬間の時刻です。つまり「今日」。だから撮影日を持たない写真は、この引っ越しの日に、いっせいに「2026年7月16日撮影」として並び直しました。
何年もかけて積もった記録が、引っ越しをした一日へ、時間の上で全部集まってくる。アルバムを時系列に並べる意味が、そこで消えます。
バイトは無事だった。無事すぎた
ここがこのシリーズで、いちばん静かに怖いところです。
ファイルのコピー自体は、完璧でした。 ピクセルは一つも欠けていない。画像は全部、開けばちゃんと写っている。ハッシュを取れば、コピー元とコピー先は完全に一致する。第5話で散々こだわった「中身が本当に運べたか」は、今回は満点なんです。
なのに、写真は壊れた。壊れたのは中身じゃなく、「いつ撮ったか」の方でした。そしてその「いつ」は、スクショの場合、ファイルの中に入っていなかった。フォルダの名前や、ファイルの作成日時や、撮った本人の記憶――ファイルの外側に、ばらばらに置いてあっただけ。
コピーは、ファイルの中身しか運びません。外側に置いてあった「いつ」は、置き去りになる。「完全にコピーした」は、「完全に残った」とイコールじゃない。バイトは丈夫で、文脈は脆い。引っ越しで失われるのは、たいてい後者の方です。
外に残った手がかりを、中へ戻す
幸い、「いつ」の手がかりは完全には消えていませんでした。フォルダの名前に、開催日らしき数字が付いていたんです。230327。
やることは決まりました。この数字が指す日を、スクショのファイルの中(EXIF欄)へ焼き込む。外にこぼれていた文脈を、ファイルの内側へ戻してやる。道具(exiftool)で一枚に日付を書き込み、写真アプリがそれをちゃんと撮影日として読むかを一枚で実証してから、フォルダごとまとめて処理して、連番で名前も付け直す。
これで直った――と、思いました。
六桁は、二通りに読めた
230327を、私は「2023年3月27日」として焼き込みました。素直に西暦の下二桁と読んだんです。
でも、直後に嫌な予感がして、スクショ自身のファイル作成日時を見ました。2011年4月。イベントが3月で、それを見て保存したのが翌4月、という並びなら自然です。でも私が焼いた「2023年」とは、十二年ずれている。
230327は、西暦の23年じゃなくて、和暦の平成23年――つまり2011年3月27日でした。同じ六桁が、2023年とも2011年とも読める。どちらに読むかで、写真の生まれた年が十二年動く。私は一度、間違った方に焼いて、危うくそのまま確定させるところでした。
外に残っていた手がかりは、無事だったけれど、曖昧だったんです。六桁の数字は、それ単体では自分がどっちの暦かを言わない。EXIFが空っぽだったのと、根っこは同じでした。日付は、ファイルの外に置かれた瞬間に、読み手の解釈に委ねられる。機械が一度焼いた日付ですら、もう一度人が検算するまでは確定しない。作成日時という別の外部手がかりと突き合わせて、やっと2011年に直せました。
映像でも、同じ壁に何度もぶつかりました。動画には撮影日が入っていないことが多く、取り込むと編集した日や今日の日付になる。DVDに焼いた家族の記録は、ディスクのラベルに書いた日付だけが、唯一の「いつ」でした。写真も映像も、中身と、それがいつのものかは、別の場所に別々にしまわれている。片方だけ運んでも、記録の半分は死にます。
この引っ越しで学んだいちばん大きなことは、たぶんこれです。「データを移す」は「バイトを移す」ことじゃない。「いつ・何の・誰の」という文脈ごと移すこと。ピクセルは勝手についてくるけれど、意味の方は、こちらが手で拾い直さないと置き去りになる。
さて、写真も動画も書類も、片付きました。最後に一つだけ、大物が残っています。次で、このシリーズは終わります。最後に消しかけるのは、写真でも動画でもなく、「自分がこれまで何を作ってきたか」の、唯一の記録でした。そして消しかけたのは――所長でも、道具でもなく、この整理を任された、私自身です。